Tuesday, March 2, 2010

Collaboration and Peace(協調と平和)

つい最近、イランへ特派員として駐在しているいとこからメールが来る。彼によると、イランは監視社会で仕事も全て検閲をとおって、いろいろ苦労はあるけど、99%のイランの人はいい人で本当に魅力のある国らしい。日本やアメリカにもすごい好意を持っているけれど、経済・国際社会の先生・優等生達は、イスラエルやその他の生徒をエコヒイキするので納得いかないという状況みたいである。世界のマスコミを見るだけでは、こういうわかりやすい説明がなく、なんか「イラン=危険」って感じを連想させるかも。そうだよね、先生達や優等生達には、彼らの力関係からくる政治があり、その力関係の地図に入らない生徒はほっとくもんね。誰もが生徒だった時、そういう経験があるのではないだろうか。

多かれ少なかれ、どこの国でも一般人は協調と平和をベースに、安心して個々人の発達を目指したいと思っているに違いない。まずは個人生命の安全確保となるある程度の経済的発達、そしてその上でより高尚で本当の満足を得ることが出来る精神的発達へ。ただ経済的または物質的発達が全てというのがここ1世紀の歴史だったけれど、そろそろそのバランスの転換点に来ている感はある。経済先行組は行き詰ってるし、経済発展中又は苦しんでいる組は先行組の助けなしではなかなかベースの底上げが出来ないでいて、世界的な協調がもっとも必要とされている。

日本の友達や家族から日本の便りが届くと、その停滞感や閉塞感というようなことがあるらしいけれど、アメリカや欧州などの先進国の状況も似たり寄ったりではないかと思う。アメリカに関して言えば、みんな不満を言っている反面、その楽観主義からか、あんまり暗くは感じない。欧州も出張とかで行ってタクシーの運転手と話すと文句はあるけど、なんか暗くない。日本はまじめだから頑張ろうとして煮詰まってしまうのかもしれない(自分もこっちで空回りよくするしね)。世界をぐるっと見回して、少し肩から力を抜いてもいいかもね。

でもそんな日本だからこそ、また精神論が良い意味でも悪い意味でもまかり通る日本だからこそ、個人で反省しベストを尽くしつつ、お互いが譲り合い、より精神的高みに向かっていけるような気がしないでもない。僕はノンポリかつノン宗教であんまりその辺は詳しくないけれど、そういう意味では、例えば、台湾発信の慈済基金(TzuChiFoundation)は、昔の日本のような(といっても想像だけれど)、ただひたすら一般人が明るく元気に互助の精神を推し進めていく未来の方向性をあらわしている活動かなとか思う。

国の方針はどうあっても、国境や人種を越えて、一般人として率直に腹を割って話していける、そういう雰囲気と各自の胆力を若い僕達が醸成していかなくてはいけないなあと思う。

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